補論|近江朝廷系貴族層とは何者だったのか――天智政権の遺産と天武改革

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補論|近江朝廷系貴族層とは何者だったのか――天智政権の遺産と天武改革

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2026/01/21 補論|近江朝廷系貴族層とは何者だったのか――天智政権の遺産と天武改革

■ はじめに

前稿では、天智天皇と天武天皇が必ずしも実の兄弟であったとは確定できないこと、その不確かさが天武天皇の国家構想と深く関係している可能性について述べた。本補論では、その議論を一段具体化し、天智天皇の政治路線を支え、また継承しようとした「近江朝廷系の貴族層」とは、いったいどのような人々であったのかを整理しておきたい。

彼らの血脈、得ていた権益、そして天武天皇の改革に対してなぜ距離を取らざるを得なかったのかを明らかにすることは、壬申の乱を単なる皇位争いではなく、日本国家形成史における転換点として理解するために不可欠である。

■ 「近江朝廷系貴族層」という呼称について

「近江朝廷系貴族層」とは、天智天皇が近江大津宮に都を置いた時代(662〜671年)に、政治・軍事・行政の中枢を担い、その政策によって明確な利益と地位を得た人々を指す便宜的な呼称である。

彼らは必ずしも古代以来の名門氏族に限られない。むしろ特徴的なのは、天智天皇個人との結びつき、政策遂行能力、実務経験によって抜擢された層が多かった点である。言い換えれば、近江朝廷とは「天智天皇によって形成された新しい支配ネットワーク」であった。

■ 血脈的背景――誰につながる人々だったのか

第一に中心となるのは、天智天皇の直系、すなわち大友皇子(弘文天皇)を軸とする系譜である。大友皇子の即位は短期間に終わったが、近江朝廷系貴族にとっては、自らの地位と政策路線を正統化する象徴的存在であった。

次に重要なのが、天智天皇の側近として台頭した氏族群である。蘇我氏滅亡後の政権再編の中で、旧来の有力氏族に代わり、天智天皇の改革を実務面で支えた家系が重用された。彼らは血統的な権威よりも、「天智政権における実績」によって地位を確立していた。

また、中臣(藤原)氏も無視できない存在である。ただし、藤原鎌足の死後、藤原氏が本格的に政権中枢を掌握するのは天武・持統朝以降であり、近江朝廷期の藤原氏は、天智路線に忠実でありながらも、政権交代の可能性を見据えた慎重な立場に置かれていたと考えられる。

さらに、近江遷都によって恩恵を受けた地方豪族、特に近江・美濃・尾張・東国方面の豪族や渡来系技術集団も、近江朝廷系貴族層の一角を成していた。彼らにとって、近江政権の存続は、自らの社会的上昇と直結していた。

■ 彼らが得ていた具体的な権益

近江朝廷系貴族層が手にしていた最大の権益は、制度形成の初期段階に関与したことによる優位性である。

天智天皇は、官僚制や位階制度の整備を急速に進めた。これは後の律令制の前段階にあたるものであり、一度任官され、制度の内側に入った者は、その後の再編においても排除されにくい立場を得た。近江朝廷系貴族は、まさにこの「制度の先住者」であった。

また、庚午年籍に代表される戸籍・計帳の整備は、租税・労役・兵役の把握を可能にし、実務的な支配力を官僚に集中させた。これは天智政権に仕える貴族層が、地域社会に対して直接的な影響力を持つことを意味していた。

さらに、白村江の敗戦後に構築された防衛体制――城柵、防人、水城、動員体制――も重要である。これらの軍事ネットワークは、天智天皇の危機意識と指導力の下で整えられ、その指揮・運用を担った貴族層は、軍事的権威と人的ネットワークを掌握していた。

■ なぜ天武天皇に協力的ではなかったのか

天武天皇が即位後に推し進めた改革は、近江朝廷系貴族層の前提を根底から揺るがすものであった。

天武天皇は、氏族連合的な政治構造を超え、天皇を中心とする超越的権威の確立を目指した。そのために、八色の姓の制定や神祇制度の再編を行い、血縁や既得官職ではなく、天皇との直接的な結びつきを重視する秩序を構想した。

これは、天智政権との関係性によって地位を得ていた近江朝廷系貴族にとって、自らの正統性を失いかねない改革であった。仮に天武天皇の血統が天智天皇と必ずしも明確につながらないものであったなら、その改革はなおさら受け入れがたいものとして映ったであろう。

■ 壬申の乱の意味――制度と理念の衝突

以上を踏まえると、壬申の乱は、単なる皇位継承争いではなく、国家の在り方をめぐる衝突であったと理解できる。

近江朝廷系貴族が体現していたのは、天智天皇の下で形成された実務官僚主導型の国家像である。それに対し、天武天皇が提示したのは、天皇の神聖性を基軸に制度を再編成する、新たな国家モデルであった。

この両者の対立は、血脈の問題、権益の問題、理念の問題が複雑に絡み合った結果であり、壬申の乱はその帰結として理解されるべきである。

■ おわりに

近江朝廷系貴族層を検討することで、天智天皇の政治が単なる前段階ではなく、一つの完成された国家モデルであったこと、そして天武天皇の改革が、それを否定し乗り越える試みであったことが浮かび上がる。

この補論は、天智・天武関係をめぐる議論を、人物論や系譜論にとどめず、日本古代国家の構造転換として捉えるための一助となることを意図している。

 

 

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