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クラジからミヤケへ――古代日本の物資管理と国家形成をめぐる試案
『日本書紀』の神武天皇紀に、「兄倉下(えくらじ)」「弟倉下(おとくらじ)」という二人の人物が登場する。
神武天皇が熊野から吉野・宇陀を経て大和へ入ろうとする過程で、兄磯城(えしき)が抵抗する。神武側の将たちは、まず弟磯城(おとしき)を通じて兄磯城を説得し、それとあわせて「兄倉下・弟倉下」を説得してはどうかと進言する。
ここで『日本書紀』は、わざわざ「倉下、此云衢羅餌」と注記している。「倉下」は「クラジ」と読む、という意味である。
つまり、「クラジ」という読みは、後世の研究者が漢字から推測したものではない。少なくとも『日本書紀』が編纂された時点では、その読みが伝えられていた。
兄倉下・弟倉下は、長髄彦(ながすねひこ)や兄磯城ほど華々しく描かれる人物ではない。しかし、神武側がわざわざ個別に帰順を求めようとしている以上、物語の中では無視できない立場にいたらしい。
この目立たない「クラジ」という言葉から、古代社会の制度形成を考えてみたい。
ただし、本稿は神武東征の記事をそのまま年代記として読むものではない。
『古事記』『日本書紀』はいずれも、そこに記された出来事よりはるか後世に編纂された史料である。編纂時の政治観や氏族系譜、王権の正統性を示そうとする構成が入り込んでいる可能性がある。
その一方で、後世に編集された物語の中に、それ以前の社会にあった呼称や関係の断片が残ることもあり得る。
そこで本稿では、神武東征が何世紀に起こったのかを決めるのではなく、「国家制度が整う以前の地域首長社会」の記憶が、クラジという名称の背後に残っている可能性から考えてみたい。
先に結論を言えば、本稿で考えたいのは、「クラジという制度がミヤケという制度に変わった」ということではない。
そうではなく、地域の有力者が人や物資を掌握する社会から、王権が土地・人・物資を組織として把握する社会へ、さらにそれが国家の制度として整えられていく長い変化である。
クラジとミヤケを、その変化を考える二つの手がかりとして並べてみよう、という試案である。
「クラジ」という言葉を考えるとき、まず思い浮かぶのが熊野の高倉下(たかくらじ)である。
『古事記』は、「熊野之高倉下〈此者人名〉」と記している。「これは人名である」とわざわざ注記されている。
そして高倉下は、一振りの剣を神武に献上する。
その剣は、高倉下が夢のお告げに従って自分の倉を確認すると、そこにあったとされる。『古事記』では、剣が「高倉下之倉頂」を穿って倉へ落とされるという、かなり印象的な描写になっている。
後世には、高倉下を天香語山命と同一視し、天火明命・饒速日命などの系譜につなぐ説が現れる。しかし、その系譜は『古事記』『日本書紀』そのものには書かれていない。
本稿では、そうした後世の系譜をいったん外し、確実に記されている「熊野の高倉下」から考える。
そして、もう一つ重要なのは、高倉下だけが「クラジ」ではないことである。
『日本書紀』には、先ほどの兄倉下・弟倉下がいる。
つまり記紀の神武伝承には、高倉下、兄倉下、弟倉下という、複数の「クラジ」が残されている。
そうなると、高倉下という一人の人物の固有名だけを説明すれば済む問題ではなくなる。
そもそも「クラジ」とは何だったのか。
ここから問いが始まる。
兄倉下・弟倉下を考えるためには、同じ神武紀に登場する別の人物たちと比べてみる必要がある。
『日本書紀』には「兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)」が登場する。二人は「菟田県之魁帥」、つまり宇陀地域の有力な首長であったと明記されている。兄猾は抵抗し、弟猾は神武側に帰順する。
同じように「兄磯城・弟磯城」がいる。
こちらはさらに興味深い。
神武即位後の論功行賞の記事で、『日本書紀』は「弟磯城、名黒速」と記している。弟磯城と呼ばれていた人物には、「黒速」という別の個人名があったのである。
だとすれば、「兄磯城」「弟磯城」は、二人の固有名そのものではなかった可能性が高い。
磯城という地域あるいは集団に属する有力者を、「兄」「弟」によって区別していたと考えれば理解しやすい。
それならば、「兄倉下・弟倉下」についても同じ見方ができる。
「クラジ」という同じ固有名を偶然二人が持っていたというより、何らかの共通する地位、集団、職能などに属する二人を「兄」「弟」で区別していた可能性である。
もちろん、ここからただちに「クラジは官職だった」と結論することはできない。
しかし少なくとも、クラジは高倉下一人だけの特殊な名称ではなく、複数の人物に用いられている。そして兄倉下・弟倉下は、兄磯城と並んで政治的な交渉の対象として扱われている。
ここまでは、仮説を立てる前に確認してよいだろう。
ここから、本稿の中心となる仮説に入る。
私は、クラジという呼称の背後に、倉と、そこに集積される物資を掌握する人物という古い社会的機能があった可能性を考えてみたい。
ただし、「ジ」が何を意味するのかを含め、クラジの語源そのものは確定できない。
したがって、「クラジ=倉の主」という語源を事実として置くことはしない。
そのうえで、なぜこの仮説を考えるのか。
根拠は大きく三つある。
第一に、クラジが高倉下一人だけではなく、兄倉下・弟倉下を含む複数の人物に用いられていることである。
第二に、その代表例である高倉下の物語では、「倉」がきわめて重要な場所として登場することである。
神武を救う剣は、高倉下自身の倉に届けられる。高倉下はそれを保持し、必要なときに神武へ渡す。
しかも、そこにあるのは穀物ではなく武器である。
この物語だけから古代の倉の実態を決めることはできない。しかし少なくとも記紀の物語世界において、「倉」は単なる米の保管場所としてだけ描かれているわけではない。共同体にとって重要なものを保持する場所として表現されている。
第三に、兄倉下・弟倉下が、兄磯城と並んで帰順を求めるべき相手とされていることである。
これも、彼らが何を管理していたかを直接示す証拠ではない。しかし少なくとも、神武側が無視できない程度の社会的立場に置かれている。
この三点を重ねたとき、「クラジ」という呼称に、倉あるいは蓄積物を掌握する有力者の姿が反映しているのではないか、という可能性が浮かんでくる。
古代社会で倉に物資を集めるということは、単に建物を所有することではない。
誰から何を集めるのか。
どれだけ保存するのか。
必要なとき、誰に渡すのか。
飢饉や争乱の際に食料をどう動かすのか。武器や祭祀財のような重要物を誰が保持するのか。
物資の集積には、分配を決める権限が伴う。
国家的な行政制度が整っていない地域首長社会では、土地の支配、人間関係、祭祀、物資管理などが、後世の官僚組織のように細かな職掌へ分かれていなかった可能性がある。
地域の有力者が、それらを重なり合った形で握っていたとしても不自然ではない。
そこで本稿では、こうした姿を便宜上「クラジ的な段階」と呼ぶことにする。
これは史料にある制度名ではない。
「倉を中心とする地域の蓄積資源を、首長的な人物が掌握していた社会」を考えるための、分析上の呼び方である。
地域社会の規模が小さいうちは、地域の有力者が物資を集め、必要に応じて分配する仕組みでも機能する。
しかし、政治的な結合が広域化すれば事情は変わる。
多数の集団を動員する。
遠距離の交通を維持する。
大規模な土木工事を行う。
軍事行動を支える。
そのためには、一地域の有力者が持つ蓄積だけでは足りない。複数の地域から物資を集め、一定の場所に収納し、必要な場所へ供給する能力が必要になる。
この変化を考える際、具体的な物的資料として注目できるのが、大阪・法円坂遺跡の倉庫群である。
現在の難波宮跡周辺では、宮殿が造られるより前の5世紀に、大規模な倉庫群が設けられていたことが確認されている。大阪市も、この5世紀倉庫群を「難波宮跡附法円坂遺跡」の重要な遺構として位置づけている。
ただし、ここで慎重でなければならない。
法円坂の倉庫群を、そのまま後世の「ミヤケ」と呼ぶことはできない。
また、高倉下や兄倉下・弟倉下から法円坂へ、何らかの制度が直接受け継がれたことを示す証拠もない。
したがって法円坂を「クラジとミヤケをつなぐ制度上の中間段階」と考えるべきではない。
重要なのは別の点である。
5世紀には、一人の地域首長が所有する倉とは明らかに異なる規模で、多数の物資を一か所に集積することが可能になっていた。
つまり、「有力者が倉を持つ」ということとは別次元の、広域的な物資集積の能力が現実に存在したことを、考古学資料が示している。
クラジとミヤケを直接つなぐ証拠ではない。
しかし、物資管理の規模が地域的なものから広域的なものへ変化していく社会を考えるうえでは、重要な節目なのである。
やがて史料上に「ミヤケ」が現れる。
一般には「屯倉」という漢字がよく知られているが、ミヤケは単純に「大きな米倉」を意味するものではない。
ミヤケ研究では、田地や生産物の管理を重視する見方がある一方、王権による地方支配の拠点として、その政治的・軍事的機能を重く見る研究もある。
難波屯倉についても、難波津や周辺地域との関係を含む、複数の機能を持つ王権の拠点として捉える議論がある。
ここで本稿が注目したいのは、クラジとミヤケの語源的な関係ではない。
両者の「主人公」の違いである。
クラジは、人に付く名称として現れる。
高倉下。
兄倉下。
弟倉下。
これに対してミヤケは、基本的には王権に属する土地・施設・人・物資などを伴う拠点あるいは仕組みとして現れる。
ここには、大きな違いがある。
国家制度が整う以前の社会では、「誰が人や物資を握っているか」が重要だったと考えられる。
土地、人間関係、祭祀、食料、武器などを、地域の有力者が自らの権威と人的関係によって動かす。
ところが王権が成長すると、それだけでは広い地域を安定して支配できない。
「誰が持っているか」だけでなく、「その土地・人・物資が、どの権力に帰属しているのか」が重要になる。
地域首長個人の権力の中に重なっていた機能が、王権の側へ取り込まれ、土地や施設、担当者を伴う仕組みへと変わっていく。
そのような社会の変化を考えるとき、クラジとミヤケの違いは興味深い。
これは「クラジという官職がミヤケに改称された」という意味ではない。
人を指すクラジと、拠点や仕組みを指すミヤケでは、そもそも言葉の種類が違う。
むしろ、その違いこそが重要なのである。
物資を集め、保持し、必要に応じて動かすという機能が、特定の有力者の人格と結びついたものから、王権に帰属する場所と組織へ移っていったのではないか。
本稿でいう「クラジからミヤケへ」とは、その変化を表している。
王権による管理が進めば、それまで地域の有力者が重なり合った形で担っていた仕事を、いくつかの職掌へ分けることができるようになる。
この点で注目されるのが、「倉人」「倉首(くらのおびと)」「稲置(いなぎ・いなき)」などの名称である。
國學院大學の氏族データベースでは、当麻之倉首(たぎまのくらのおびと)について、朝廷の倉の仕事に従事する倉人を統轄した氏族と説明している。
少なくとも後の段階では、
倉がある。
そこで働く者がいる。
それを統率する者がいる。
という、役割の区別を考えることができる。
「首(おびと)」という称号も、地方の有力者や伴造、県主、稲置、屯倉の管理に関係する人々などと結びついて現れる。
また稲置についても、屯倉管理者とみる説、地方的小首長が官職化したものとみる説などがあり、その制度的位置については定説に至っていない。
しかし、この不確定さは今回の問題を考えるうえで、かえって示唆的でもある。
古代国家の制度は、ある時点で完成した官僚組織が突然現れたのではない。
在地の首長、土地の管理者、物資を扱う者、王権から派遣される者などが重なりながら、しだいに役割を分化させていったと考える方が自然である。
だから、「クラジ→倉人→倉首→稲置→ミヤケ」という名称の系譜を想定する必要はない。
むしろ重要なのは、一人の有力者の権力の中にまとまっていた可能性のある機能が、政治単位の拡大とともに分けられ、それぞれに担当者や名称、制度が与えられていくことである。
ここまでの議論を整理してみよう。
これは、制度が直接継承された順序ではない。
国家形成にともなって、物資管理の主体と方法がどのように変わっていったかを見るための、分析上の見取り図である。
国家制度が整う以前の地域首長社会では、人と土地と物資の管理が、地域の有力者の人格や権威と強く結びついていた可能性がある。
本稿では、その姿を「クラジ的な段階」と呼んだ。
政治的な結合が広域化すると、多数の地域から物資を集める能力そのものが重要になる。5世紀の法円坂倉庫群は、そのような大規模集積が現実に行われ得たことを示す物的な例となる。
さらにミヤケが史料上明瞭になる段階では、土地・人・物資・交通などを、王権が地域の拠点を通じて把握する姿が見えてくる。
そして倉人、倉首、稲置、国造など、異なる機能を担う立場がしだいに整理されていく。
最終的には、土地、人、租税、倉庫、地方行政が、個々の首長の人格から切り離され、国家の制度として管理されるようになる。
この長い変化を一言で表すなら、
「誰が握っているか」から、 「どの権力に属するか」へ、 そして、 「どの制度によって管理されるか」へ、
という変化である。
本稿が見たいのは、倉庫建築そのものの発達ではない。
物資を集め、保存し、分配する権限が、誰に属しているのか。
そこに国家形成の重要な一面が現れているのではないか、ということである。
ここで、本稿の仮説がどこまで言えるものなのかを確認しておきたい。
最大の問題は、「クラジ」が倉や物資の管理を意味した、と直接説明する史料がないことである。
『日本書紀』が「倉下=クラジ」という読みを伝えていることは確かである。
高倉下の物語では倉が重要な役割を果たす。
兄倉下・弟倉下は、政治的に無視できない存在として描かれる。
しかし、それでも「クラジとは倉を管理する首長である」と断定することはできない。
本稿のクラジ像は、この三つの手がかりを社会史的に組み合わせた仮説である。
また、神武伝承の時代を、そのまま実年代へ置くこともできない。
本稿で「国家制度が整う以前の地域首長社会」という表現を用いているのはそのためである。
神武東征がいつ起こったのかという問題と、記紀に残されたクラジという名称にどのような社会の記憶が反映しているのかという問題は、分けて考える必要がある。
さらに、法円坂の5世紀倉庫群から後のミヤケへ、一つの制度が継続したことが証明されているわけでもない。
ミヤケそのものについても、田地経営を重視する見方、政治的・軍事的な地方拠点として捉える見方など、研究上の議論がある。
したがって、
「クラジ制度がミヤケ制度になった」
と結論することはできない。
本稿が提示したいのは、それより弱いが、もう少し広い見方である。
古い地域社会で有力者個人に集約されていた可能性のある物資管理の機能が、政治単位の拡大にともなって王権へ集約され、その後さらに職掌や行政制度へ分けられていったのではないか。
クラジとミヤケを、その長い変化を考える両端の手がかりとして置いてみる。
ここまでが、この試案の射程である。
この長い変化の先に、7世紀後半の天武朝を置いてみることができる。
天武天皇は673年に即位し、681年には飛鳥浄御原令の制定に着手した。氏姓制度を再編する八色の姓を定めるなど、官人制度や国家的な法体系の整備を進めた。
飛鳥浄御原令の完成・施行は持統朝へ引き継がれ、さらに701年の大宝律令へつながっていく。
ここで重要なのは、天武天皇が突然、何もないところから国家制度を作ったわけではないことである。
その前には、長い時間をかけて進んできた変化があった。
地域の有力者による人と物の掌握。
王権による広域的な物資動員。
ミヤケのような地域拠点。
倉人、倉首、稲置、国造など、さまざまな職掌や地方支配の発達。
その積み重ねの先に、天武朝以降の制度整備を見ることができる。
地域の有力者が、自分の人間関係と権威によって土地と物資を動かす社会から、担当者が代わっても、一定の規則によって人・土地・物資を把握できる社会へ。
この転換こそ、国家形成を考えるうえで重要だったのではないか。
「兄倉下・弟倉下」という目立たない二人から始めると、思いがけず大きな問題に行き着く。
クラジが本当に倉を掌握する首長だったかどうかは分からない。
しかし、高倉下には倉があり、そこに重要な剣が保持される。
兄倉下・弟倉下は、兄磯城と並んで神武側から帰順を求められる存在として描かれる。
後の時代には、倉人があり、それを統轄する倉首があり、王権の地域支配に関わるミヤケが現れる。
そして最終的には、土地・人・物資の管理そのものが律令国家の行政制度へ組み込まれていく。
これらを一本の制度史として結ぶことはできない。
しかし、社会の変化として眺めれば、
「有力者が人と物資を握る社会」から、 「王権が地域の人と物資を把握する社会」へ、 そして、 「国家がそれを制度として管理する社会」へ、
という大きな方向を見ることはできる。
国家形成を考えるとき、王がいることや巨大な宮殿が建つことだけでは十分ではない。
食料がどれだけあるのかを知る。
それを集める。
保存する。
必要な場所へ運ぶ。
人を動員する。
武器や資材を準備する。
それらを担当する者を定める。
そして何より、その担当者が代わっても、仕組みそのものが動き続けるようにする。
こうした一見地味な仕組みの積み重ねによって、地域の有力者たちの結合とは異なる「国家」が、しだいに形を持ち始める。
クラジからミヤケへ。
この二つの言葉の間に、直接の語源的なつながりが確認できるわけではない。
制度がそのまま継承されたことを示す証拠もない。
しかし、もしクラジという名称の背後に、地域の蓄積資源を掌握する有力者の姿がわずかに残されているのだとすれば、後に現れるミヤケとの違いは興味深い。
一方では、人に付く名前がある。
もう一方では、王権に属する拠点と仕組みがある。
その違いの間に、
人に依存した支配から、場所と組織による支配へ。
地域的な蓄積から、王権による広域的な集積へ。
そして王権による集積から、国家の制度へ。
という長い変化を見てみる。
それが、「クラジからミヤケへ」という題名に込めた、本稿の一つの試案である。
『古事記』中巻・神武天皇段 ――熊野の高倉下と、その倉に剣がもたらされる伝承。
『日本書紀』巻第三・神武天皇紀 ――兄猾・弟猾、兄磯城・弟磯城、兄倉下・弟倉下、および「倉下、此云衢羅餌」の記事。
國學院大學「古典文化学」事業・氏族データベース ――当麻之倉首、稲置、首などに関する説明。
大阪市「難波宮跡附法円坂遺跡」関係資料 ――5世紀の法円坂倉庫群に関する発掘・史跡資料。
栄原永遠男「難波屯倉と古代王権――難波長柄豊碕宮の前夜」『大阪歴史博物館研究紀要』第15号、2017年 ――難波屯倉の成立・機能とミヤケをめぐる研究。
奈良県「天武天皇ストーリー」「ぶらり日本書紀」 ――天武朝の飛鳥浄御原令、八色の姓などの制度整備に関する解説。
修生会
住所 兵庫県姫路市白浜町甲2379 電話番号 079-245-0780 アクセス 白浜の宮駅より徒歩10分
26/10/09
26/10/07
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「兄倉下・弟倉下」という目立たない二人
『日本書紀』の神武天皇紀に、「兄倉下(えくらじ)」「弟倉下(おとくらじ)」という二人の人物が登場する。
神武天皇が熊野から吉野・宇陀を経て大和へ入ろうとする過程で、兄磯城(えしき)が抵抗する。神武側の将たちは、まず弟磯城(おとしき)を通じて兄磯城を説得し、それとあわせて「兄倉下・弟倉下」を説得してはどうかと進言する。
ここで『日本書紀』は、わざわざ「倉下、此云衢羅餌」と注記している。「倉下」は「クラジ」と読む、という意味である。
つまり、「クラジ」という読みは、後世の研究者が漢字から推測したものではない。少なくとも『日本書紀』が編纂された時点では、その読みが伝えられていた。
兄倉下・弟倉下は、長髄彦(ながすねひこ)や兄磯城ほど華々しく描かれる人物ではない。しかし、神武側がわざわざ個別に帰順を求めようとしている以上、物語の中では無視できない立場にいたらしい。
この目立たない「クラジ」という言葉から、古代社会の制度形成を考えてみたい。
ただし、本稿は神武東征の記事をそのまま年代記として読むものではない。
『古事記』『日本書紀』はいずれも、そこに記された出来事よりはるか後世に編纂された史料である。編纂時の政治観や氏族系譜、王権の正統性を示そうとする構成が入り込んでいる可能性がある。
その一方で、後世に編集された物語の中に、それ以前の社会にあった呼称や関係の断片が残ることもあり得る。
そこで本稿では、神武東征が何世紀に起こったのかを決めるのではなく、「国家制度が整う以前の地域首長社会」の記憶が、クラジという名称の背後に残っている可能性から考えてみたい。
先に結論を言えば、本稿で考えたいのは、「クラジという制度がミヤケという制度に変わった」ということではない。
そうではなく、地域の有力者が人や物資を掌握する社会から、王権が土地・人・物資を組織として把握する社会へ、さらにそれが国家の制度として整えられていく長い変化である。
クラジとミヤケを、その変化を考える二つの手がかりとして並べてみよう、という試案である。
高倉下について、確実に分かること
「クラジ」という言葉を考えるとき、まず思い浮かぶのが熊野の高倉下(たかくらじ)である。
『古事記』は、「熊野之高倉下〈此者人名〉」と記している。「これは人名である」とわざわざ注記されている。
そして高倉下は、一振りの剣を神武に献上する。
その剣は、高倉下が夢のお告げに従って自分の倉を確認すると、そこにあったとされる。『古事記』では、剣が「高倉下之倉頂」を穿って倉へ落とされるという、かなり印象的な描写になっている。
後世には、高倉下を天香語山命と同一視し、天火明命・饒速日命などの系譜につなぐ説が現れる。しかし、その系譜は『古事記』『日本書紀』そのものには書かれていない。
本稿では、そうした後世の系譜をいったん外し、確実に記されている「熊野の高倉下」から考える。
そして、もう一つ重要なのは、高倉下だけが「クラジ」ではないことである。
『日本書紀』には、先ほどの兄倉下・弟倉下がいる。
つまり記紀の神武伝承には、高倉下、兄倉下、弟倉下という、複数の「クラジ」が残されている。
そうなると、高倉下という一人の人物の固有名だけを説明すれば済む問題ではなくなる。
そもそも「クラジ」とは何だったのか。
ここから問いが始まる。
「兄・弟+名称」という呼び方
兄倉下・弟倉下を考えるためには、同じ神武紀に登場する別の人物たちと比べてみる必要がある。
『日本書紀』には「兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)」が登場する。二人は「菟田県之魁帥」、つまり宇陀地域の有力な首長であったと明記されている。兄猾は抵抗し、弟猾は神武側に帰順する。
同じように「兄磯城・弟磯城」がいる。
こちらはさらに興味深い。
神武即位後の論功行賞の記事で、『日本書紀』は「弟磯城、名黒速」と記している。弟磯城と呼ばれていた人物には、「黒速」という別の個人名があったのである。
だとすれば、「兄磯城」「弟磯城」は、二人の固有名そのものではなかった可能性が高い。
磯城という地域あるいは集団に属する有力者を、「兄」「弟」によって区別していたと考えれば理解しやすい。
それならば、「兄倉下・弟倉下」についても同じ見方ができる。
「クラジ」という同じ固有名を偶然二人が持っていたというより、何らかの共通する地位、集団、職能などに属する二人を「兄」「弟」で区別していた可能性である。
もちろん、ここからただちに「クラジは官職だった」と結論することはできない。
しかし少なくとも、クラジは高倉下一人だけの特殊な名称ではなく、複数の人物に用いられている。そして兄倉下・弟倉下は、兄磯城と並んで政治的な交渉の対象として扱われている。
ここまでは、仮説を立てる前に確認してよいだろう。
クラジを「倉を握る人」と考えてみる
ここから、本稿の中心となる仮説に入る。
私は、クラジという呼称の背後に、倉と、そこに集積される物資を掌握する人物という古い社会的機能があった可能性を考えてみたい。
ただし、「ジ」が何を意味するのかを含め、クラジの語源そのものは確定できない。
したがって、「クラジ=倉の主」という語源を事実として置くことはしない。
そのうえで、なぜこの仮説を考えるのか。
根拠は大きく三つある。
第一に、クラジが高倉下一人だけではなく、兄倉下・弟倉下を含む複数の人物に用いられていることである。
第二に、その代表例である高倉下の物語では、「倉」がきわめて重要な場所として登場することである。
神武を救う剣は、高倉下自身の倉に届けられる。高倉下はそれを保持し、必要なときに神武へ渡す。
しかも、そこにあるのは穀物ではなく武器である。
この物語だけから古代の倉の実態を決めることはできない。しかし少なくとも記紀の物語世界において、「倉」は単なる米の保管場所としてだけ描かれているわけではない。共同体にとって重要なものを保持する場所として表現されている。
第三に、兄倉下・弟倉下が、兄磯城と並んで帰順を求めるべき相手とされていることである。
これも、彼らが何を管理していたかを直接示す証拠ではない。しかし少なくとも、神武側が無視できない程度の社会的立場に置かれている。
この三点を重ねたとき、「クラジ」という呼称に、倉あるいは蓄積物を掌握する有力者の姿が反映しているのではないか、という可能性が浮かんでくる。
古代社会で倉に物資を集めるということは、単に建物を所有することではない。
誰から何を集めるのか。
どれだけ保存するのか。
必要なとき、誰に渡すのか。
飢饉や争乱の際に食料をどう動かすのか。武器や祭祀財のような重要物を誰が保持するのか。
物資の集積には、分配を決める権限が伴う。
国家的な行政制度が整っていない地域首長社会では、土地の支配、人間関係、祭祀、物資管理などが、後世の官僚組織のように細かな職掌へ分かれていなかった可能性がある。
地域の有力者が、それらを重なり合った形で握っていたとしても不自然ではない。
そこで本稿では、こうした姿を便宜上「クラジ的な段階」と呼ぶことにする。
これは史料にある制度名ではない。
「倉を中心とする地域の蓄積資源を、首長的な人物が掌握していた社会」を考えるための、分析上の呼び方である。
人が持つ倉から、広域的に集める倉へ
地域社会の規模が小さいうちは、地域の有力者が物資を集め、必要に応じて分配する仕組みでも機能する。
しかし、政治的な結合が広域化すれば事情は変わる。
多数の集団を動員する。
遠距離の交通を維持する。
大規模な土木工事を行う。
軍事行動を支える。
そのためには、一地域の有力者が持つ蓄積だけでは足りない。複数の地域から物資を集め、一定の場所に収納し、必要な場所へ供給する能力が必要になる。
この変化を考える際、具体的な物的資料として注目できるのが、大阪・法円坂遺跡の倉庫群である。
現在の難波宮跡周辺では、宮殿が造られるより前の5世紀に、大規模な倉庫群が設けられていたことが確認されている。大阪市も、この5世紀倉庫群を「難波宮跡附法円坂遺跡」の重要な遺構として位置づけている。
ただし、ここで慎重でなければならない。
法円坂の倉庫群を、そのまま後世の「ミヤケ」と呼ぶことはできない。
また、高倉下や兄倉下・弟倉下から法円坂へ、何らかの制度が直接受け継がれたことを示す証拠もない。
したがって法円坂を「クラジとミヤケをつなぐ制度上の中間段階」と考えるべきではない。
重要なのは別の点である。
5世紀には、一人の地域首長が所有する倉とは明らかに異なる規模で、多数の物資を一か所に集積することが可能になっていた。
つまり、「有力者が倉を持つ」ということとは別次元の、広域的な物資集積の能力が現実に存在したことを、考古学資料が示している。
クラジとミヤケを直接つなぐ証拠ではない。
しかし、物資管理の規模が地域的なものから広域的なものへ変化していく社会を考えるうえでは、重要な節目なのである。
ミヤケでは、主人公が「人」から「王権」に変わる
やがて史料上に「ミヤケ」が現れる。
一般には「屯倉」という漢字がよく知られているが、ミヤケは単純に「大きな米倉」を意味するものではない。
ミヤケ研究では、田地や生産物の管理を重視する見方がある一方、王権による地方支配の拠点として、その政治的・軍事的機能を重く見る研究もある。
難波屯倉についても、難波津や周辺地域との関係を含む、複数の機能を持つ王権の拠点として捉える議論がある。
ここで本稿が注目したいのは、クラジとミヤケの語源的な関係ではない。
両者の「主人公」の違いである。
クラジは、人に付く名称として現れる。
高倉下。
兄倉下。
弟倉下。
これに対してミヤケは、基本的には王権に属する土地・施設・人・物資などを伴う拠点あるいは仕組みとして現れる。
ここには、大きな違いがある。
国家制度が整う以前の社会では、「誰が人や物資を握っているか」が重要だったと考えられる。
土地、人間関係、祭祀、食料、武器などを、地域の有力者が自らの権威と人的関係によって動かす。
ところが王権が成長すると、それだけでは広い地域を安定して支配できない。
「誰が持っているか」だけでなく、「その土地・人・物資が、どの権力に帰属しているのか」が重要になる。
地域首長個人の権力の中に重なっていた機能が、王権の側へ取り込まれ、土地や施設、担当者を伴う仕組みへと変わっていく。
そのような社会の変化を考えるとき、クラジとミヤケの違いは興味深い。
これは「クラジという官職がミヤケに改称された」という意味ではない。
人を指すクラジと、拠点や仕組みを指すミヤケでは、そもそも言葉の種類が違う。
むしろ、その違いこそが重要なのである。
物資を集め、保持し、必要に応じて動かすという機能が、特定の有力者の人格と結びついたものから、王権に帰属する場所と組織へ移っていったのではないか。
本稿でいう「クラジからミヤケへ」とは、その変化を表している。
倉人・倉首・稲置――一人が握った機能が分かれていく
王権による管理が進めば、それまで地域の有力者が重なり合った形で担っていた仕事を、いくつかの職掌へ分けることができるようになる。
この点で注目されるのが、「倉人」「倉首(くらのおびと)」「稲置(いなぎ・いなき)」などの名称である。
國學院大學の氏族データベースでは、当麻之倉首(たぎまのくらのおびと)について、朝廷の倉の仕事に従事する倉人を統轄した氏族と説明している。
少なくとも後の段階では、
倉がある。
そこで働く者がいる。
それを統率する者がいる。
という、役割の区別を考えることができる。
「首(おびと)」という称号も、地方の有力者や伴造、県主、稲置、屯倉の管理に関係する人々などと結びついて現れる。
また稲置についても、屯倉管理者とみる説、地方的小首長が官職化したものとみる説などがあり、その制度的位置については定説に至っていない。
しかし、この不確定さは今回の問題を考えるうえで、かえって示唆的でもある。
古代国家の制度は、ある時点で完成した官僚組織が突然現れたのではない。
在地の首長、土地の管理者、物資を扱う者、王権から派遣される者などが重なりながら、しだいに役割を分化させていったと考える方が自然である。
だから、「クラジ→倉人→倉首→稲置→ミヤケ」という名称の系譜を想定する必要はない。
むしろ重要なのは、一人の有力者の権力の中にまとまっていた可能性のある機能が、政治単位の拡大とともに分けられ、それぞれに担当者や名称、制度が与えられていくことである。
「クラジからミヤケへ」という見取り図
ここまでの議論を整理してみよう。
これは、制度が直接継承された順序ではない。
国家形成にともなって、物資管理の主体と方法がどのように変わっていったかを見るための、分析上の見取り図である。
国家制度が整う以前の地域首長社会では、人と土地と物資の管理が、地域の有力者の人格や権威と強く結びついていた可能性がある。
本稿では、その姿を「クラジ的な段階」と呼んだ。
政治的な結合が広域化すると、多数の地域から物資を集める能力そのものが重要になる。5世紀の法円坂倉庫群は、そのような大規模集積が現実に行われ得たことを示す物的な例となる。
さらにミヤケが史料上明瞭になる段階では、土地・人・物資・交通などを、王権が地域の拠点を通じて把握する姿が見えてくる。
そして倉人、倉首、稲置、国造など、異なる機能を担う立場がしだいに整理されていく。
最終的には、土地、人、租税、倉庫、地方行政が、個々の首長の人格から切り離され、国家の制度として管理されるようになる。
この長い変化を一言で表すなら、
「誰が握っているか」から、
「どの権力に属するか」へ、
そして、
「どの制度によって管理されるか」へ、
という変化である。
本稿が見たいのは、倉庫建築そのものの発達ではない。
物資を集め、保存し、分配する権限が、誰に属しているのか。
そこに国家形成の重要な一面が現れているのではないか、ということである。
この見方に対する留保
ここで、本稿の仮説がどこまで言えるものなのかを確認しておきたい。
最大の問題は、「クラジ」が倉や物資の管理を意味した、と直接説明する史料がないことである。
『日本書紀』が「倉下=クラジ」という読みを伝えていることは確かである。
高倉下の物語では倉が重要な役割を果たす。
兄倉下・弟倉下は、政治的に無視できない存在として描かれる。
しかし、それでも「クラジとは倉を管理する首長である」と断定することはできない。
本稿のクラジ像は、この三つの手がかりを社会史的に組み合わせた仮説である。
また、神武伝承の時代を、そのまま実年代へ置くこともできない。
本稿で「国家制度が整う以前の地域首長社会」という表現を用いているのはそのためである。
神武東征がいつ起こったのかという問題と、記紀に残されたクラジという名称にどのような社会の記憶が反映しているのかという問題は、分けて考える必要がある。
さらに、法円坂の5世紀倉庫群から後のミヤケへ、一つの制度が継続したことが証明されているわけでもない。
ミヤケそのものについても、田地経営を重視する見方、政治的・軍事的な地方拠点として捉える見方など、研究上の議論がある。
したがって、
「クラジ制度がミヤケ制度になった」
と結論することはできない。
本稿が提示したいのは、それより弱いが、もう少し広い見方である。
古い地域社会で有力者個人に集約されていた可能性のある物資管理の機能が、政治単位の拡大にともなって王権へ集約され、その後さらに職掌や行政制度へ分けられていったのではないか。
クラジとミヤケを、その長い変化を考える両端の手がかりとして置いてみる。
ここまでが、この試案の射程である。
その先に天武朝を見る
この長い変化の先に、7世紀後半の天武朝を置いてみることができる。
天武天皇は673年に即位し、681年には飛鳥浄御原令の制定に着手した。氏姓制度を再編する八色の姓を定めるなど、官人制度や国家的な法体系の整備を進めた。
飛鳥浄御原令の完成・施行は持統朝へ引き継がれ、さらに701年の大宝律令へつながっていく。
ここで重要なのは、天武天皇が突然、何もないところから国家制度を作ったわけではないことである。
その前には、長い時間をかけて進んできた変化があった。
地域の有力者による人と物の掌握。
王権による広域的な物資動員。
ミヤケのような地域拠点。
倉人、倉首、稲置、国造など、さまざまな職掌や地方支配の発達。
その積み重ねの先に、天武朝以降の制度整備を見ることができる。
地域の有力者が、自分の人間関係と権威によって土地と物資を動かす社会から、担当者が代わっても、一定の規則によって人・土地・物資を把握できる社会へ。
この転換こそ、国家形成を考えるうえで重要だったのではないか。
倉から国家を見る
「兄倉下・弟倉下」という目立たない二人から始めると、思いがけず大きな問題に行き着く。
クラジが本当に倉を掌握する首長だったかどうかは分からない。
しかし、高倉下には倉があり、そこに重要な剣が保持される。
兄倉下・弟倉下は、兄磯城と並んで神武側から帰順を求められる存在として描かれる。
後の時代には、倉人があり、それを統轄する倉首があり、王権の地域支配に関わるミヤケが現れる。
そして最終的には、土地・人・物資の管理そのものが律令国家の行政制度へ組み込まれていく。
これらを一本の制度史として結ぶことはできない。
しかし、社会の変化として眺めれば、
「有力者が人と物資を握る社会」から、
「王権が地域の人と物資を把握する社会」へ、
そして、
「国家がそれを制度として管理する社会」へ、
という大きな方向を見ることはできる。
国家形成を考えるとき、王がいることや巨大な宮殿が建つことだけでは十分ではない。
食料がどれだけあるのかを知る。
それを集める。
保存する。
必要な場所へ運ぶ。
人を動員する。
武器や資材を準備する。
それらを担当する者を定める。
そして何より、その担当者が代わっても、仕組みそのものが動き続けるようにする。
こうした一見地味な仕組みの積み重ねによって、地域の有力者たちの結合とは異なる「国家」が、しだいに形を持ち始める。
クラジからミヤケへ。
この二つの言葉の間に、直接の語源的なつながりが確認できるわけではない。
制度がそのまま継承されたことを示す証拠もない。
しかし、もしクラジという名称の背後に、地域の蓄積資源を掌握する有力者の姿がわずかに残されているのだとすれば、後に現れるミヤケとの違いは興味深い。
一方では、人に付く名前がある。
もう一方では、王権に属する拠点と仕組みがある。
その違いの間に、
人に依存した支配から、場所と組織による支配へ。
地域的な蓄積から、王権による広域的な集積へ。
そして王権による集積から、国家の制度へ。
という長い変化を見てみる。
それが、「クラジからミヤケへ」という題名に込めた、本稿の一つの試案である。
参考とした主な史料・研究
『古事記』中巻・神武天皇段
――熊野の高倉下と、その倉に剣がもたらされる伝承。
『日本書紀』巻第三・神武天皇紀
――兄猾・弟猾、兄磯城・弟磯城、兄倉下・弟倉下、および「倉下、此云衢羅餌」の記事。
國學院大學「古典文化学」事業・氏族データベース
――当麻之倉首、稲置、首などに関する説明。
大阪市「難波宮跡附法円坂遺跡」関係資料
――5世紀の法円坂倉庫群に関する発掘・史跡資料。
栄原永遠男「難波屯倉と古代王権――難波長柄豊碕宮の前夜」『大阪歴史博物館研究紀要』第15号、2017年
――難波屯倉の成立・機能とミヤケをめぐる研究。
奈良県「天武天皇ストーリー」「ぶらり日本書紀」
――天武朝の飛鳥浄御原令、八色の姓などの制度整備に関する解説。
修生会
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