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理解の四つの層とは何か――日常の感情と正義を高次から見直し人生を深める方法
私たちは日常の中で、出来事をすぐに評価しています。仕事がうまくいけば成功、事業が行き詰まれば失敗、病気になれば不幸、人間関係がこじれれば相手か自分のどちらかが悪い。そのように判断することで、目の前の状況を分かりやすく整理しています。
もちろん、日常生活を送るためには、ある程度の即断が必要です。横断歩道で危険を感じたとき、物事を哲学的に考えている余裕はありません。しかし、感情が大きく揺れたときや、誰かを強く非難したくなったときには、即座に下した判断が、現実の一部分しか捉えていないことがあります。
目の前の出来事を、もう少し長い時間の流れや、周囲との関係の中に置き直してみる。そのための見方として、私は「理解の四つの層」という考え方を提示してみたいと思います。
「理解の四つの層」は、心理学や哲学で統一的に定められた正式な分類ではありません。ただし、対象を捉え、構造を知り、前提を問い、複数の理解を統合するという流れは、哲学、教育学、心理学などに繰り返し現れます。
ここでいう層は、人間を格付けするための段階ではありません。一人の人の中に、四つの理解が共存しています。日常の多くは第一層で十分に対応できますが、問題が繰り返されると第二層が必要になります。自分の見方そのものが行き詰まれば第三層へ進み、異なる正しさが衝突するときには第四層の理解が求められます。
大切なのは、いつも高い層にとどまることではありません。必要に応じて上の層へ移り、そこで得た理解を携えて、再び日常の行動へ戻ってくることです。
第一層では、起きている出来事をそのまま捉えます。「事業が失敗した」「病気になった」「相手が約束を破った」「私は腹を立てている」という理解です。
この層では、状況を速やかに認識し、必要な行動を取ることが重視されます。損失を止める、治療を受ける、相手に事情を尋ねる、危険から離れる。現実的な生活に欠かせない理解です。
しかし、この層だけで判断すると、見えている結果がそのまま出来事の全体になりやすいものです。事業の失敗は悪いこと、病気は不幸、約束を破った人は悪い人と、短い言葉で現実を閉じてしまいます。
第二層では、「なぜ、その出来事が起きたのか」を考えます。
事業の失敗には、本人の判断だけでなく、景気、社会状況、資金、時期、取引先との関係、組織の体質などが重なっています。人間関係のトラブルにも、双方の性格、過去の経験、言葉の受け取り方、立場の違い、疲労などが関わっています。
この層へ進むと、一人だけを原因とする説明が不十分であることに気づきます。もちろん、責任がなくなるわけではありません。しかし責任を問うことと、原因の全体を理解することは別です。
誰かの誤りを認めながら、その誤りが生じた流れも理解する。ここに、感情的な断罪から離れるための最初の余地が生まれます。
第三層では、出来事ではなく、それを見ている自分の理解の仕方が問われます。
「私はなぜ、これを失敗と呼んだのか」「なぜ相手だけが悪いと思ったのか」「世間の常識を、そのまま正義と考えていないか」「自分にとって面倒なことを、合理的ではないという言葉で退けていないか」と、自分の前提を振り返ります。
私たちは事実を見てから感情を抱くと思いがちです。しかし実際には、事実についての理解や評価が先にあり、それによって感情が大きく動くことがあります。同じ出来事でも、「終わり」と理解すれば絶望になり、「転換点」と理解すれば、苦しみの中にも次への可能性が見えてきます。
第三層では、自分の理解が現実そのものではないと知ります。これは、自分の感情を否定することではありません。むしろ感情を、自分が現実をどのように見ているか知らせるバロメーターとして受け取ることです。
第四層では、一つの出来事を複数の枠組みから捉え、それぞれの有効性と限界を見ます。
病気は、医学的には身体の異常であり、適切な治療を必要とします。同時に、本人にとっては生活の中断であり、家族にとっては不安であり、人生全体から見れば、それまでの生き方を見直さざるを得ない出来事にもなります。
どれか一つだけが正しく、ほかが間違っているのではありません。医学的説明で病気の意味をすべて語ることはできませんが、宗教的な意味づけで医学を置き換えることもできません。それぞれの理解が、異なる問いに答えています。
第四層の理解とは、すべてを一つの答えにまとめることではなく、異なる説明を区別したまま関係づけることです。そして、その全体を見ている自分もまた、限られた立場にいると知ることです。
事業の失敗、病気、人間関係のトラブルは、一般的にはネガティブな出来事として受け取られます。実際に、金銭的な損失、身体の苦痛、信頼の崩壊を伴うことがあります。それを簡単に「よい経験だった」と美化することはできません。
しかし、長い流れの中で見ると、その出来事は突然、理由もなく現れたものではないことがあります。社会状況、本人の性格、周囲との関係、過去の選択や見落としが重なり、ある時点で表面に現れます。その意味では、そこまでの流れの中で、そうならざるを得なかった面もあります。
現実を受け入れるとは、「仕方がない」と諦めることではありません。自分の期待していた世界ではなく、実際にそこにある世界から、もう一度始めることです。
失敗を失敗と認めたとき、手放すべきものが見えてきます。病気を受け入れたとき、治療や生活の組み直しへ進めます。人間関係の破綻を直視したとき、修復するのか、距離を置くのかを選べます。受け入れることによって、次の状況へ移る道が初めて開かれる場合があります。
私たちは、自分の判断を「合理的だ」と説明することがあります。しかし、ときには合理性という言葉の下に、面倒なことを避けたい気持ちが隠れています。
丁寧に話し合うのは面倒だから、相手とは考え方が違うと決める。小さな異変を調べるのは面倒だから、まだ大丈夫だと考える。組織の問題に向き合うのは面倒だから、昔からこうしてきたと説明する。その時点では、手間を省いた合理的な判断に見えるかもしれません。
けれども、面倒だと感じる事柄の中に、次の段階へ進む入口があることがあります。避け続けているものは、現在の理解では処理できない問題だからこそ、面倒に感じられるのかもしれません。
高次から見るとは、何でも複雑に考えることではありません。「合理的」という説明が、本当に全体を考えた判断なのか、それとも自分を守るための短い説明なのかを見分けることです。
怒り、不安、焦り、強い嫌悪が生じたとき、その感情を直ちに正しい判断の証拠と考える必要はありません。同時に、感情を抑え込む必要もありません。
感情が大きく揺れたときには、「いま、自分の理解の仕方が強く反応している」と考えてみます。怒りの源が相手の行為だけではなく、自分の期待、価値観、過去の経験にあると気づくまで、少し時間を稼ぎます。
その場で結論を出さない。言葉を返す前に一晩置く。自分が当然だと思っている前提を書き出す。相手にはどのような流れが見えているかを想像する。こうした時間は、感情を消すためではなく、感情が示している理解の狭さを見つけるためにあります。
時間がたっても相手の行為が誤りだと判断することはあります。しかし、そのときの判断は、最初の衝動的な非難とは違います。相手を傷つけたいのではなく、何を改めなければならないかが、より明瞭になります。
世間の常識や多数の意見は、判断の手がかりになります。しかし、それをそのまま正義とすると、現実の一部分しか知らないまま、人を裁くことがあります。
不正を批判することは必要です。被害を受けた人を守ることも必要です。ただし、正しい側に立っているという確信は、言葉を必要以上に強くし、相手を一人の人間として見なくさせることがあります。
正義を語りながら、周囲の人を悲しませたり、苦しめたりする。その苦しみを感じ取れなくなったとき、私たちは正義の名の下で、正義の反対側に立っているのかもしれません。
ここで必要なのは、善悪を曖昧にすることではありません。自分の正しさが、誰にどのような痛みを与えているかを感じ取れるよう、感性を保ち続けることです。正義に感性が伴わなければ、正しさは容易に暴力へ変わります。
ドイツ哲学の「アウフヘーベン」という言葉には、否定する、保存する、持ち上げるという褹数の意味があります。対立する二つの考えの一方を捨てるのではなく、双方に含まれる真実を残しながら、対立が生じた理由まで見える水準へ進むことです。
第四層の理解は、このアウフヘーベンに近い働きをします。
失敗は損失である。しかし、次へ進む契機にもなり得る。病気は治療すべきものである。しかし、生き方を問い直す出来事にもなる。相手の行為には誤りがある。しかし、その人を誤りだけで説明することはできない。
これは都合のよい肯定でも、両者の中間を取る妥協でもありません。否定すべきものは否定しながら、そこから失ってはならないものを見いだし、より広い理解へ移すことです。
形而上学というと、現実から離れた難しい学問に聞こえるかもしれません。しかし本来は、「存在するとは何か」「善いとは何か」「人間とは何か」「意味は世界にあるのか、人間が作るのか」と、個々の判断を支えている根本を問う思索です。
事業の成功を善いと考えるとき、私たちは人生の価値を何に置いているのでしょうか。健康を失った人生には価値が少ないのでしょうか。人間関係が続くことだけが善であり、別れることは失敗なのでしょうか。
こうした問いには、誰にでも当てはまる簡単な答えはありません。それでも問うことによって、世間の常識を借りていた自分の判断が、少しずつ自分のものになります。
形而上学は、日常に役立たない問いではありません。日常で「何が役に立つのか」を決めている前提そのものを見直す働きです。
四つの層は、言語を使って考えられます。しかし、言語は現実そのものではありません。
「悲しい」と言っても、その人の悲しみの質感をすべて伝えることはできません。「失敗」と名づけた瞬間に、そこに含まれていた努力、迷い、変化の可能性が見えなくなることもあります。
第三層では、言葉が現実の見え方を作っていることに気づきます。第四層では、医学、心理学、倫理、宗教など、それぞれの言語が何を照らし、何を照らせないかを考えます。
宗教的な言葉も例外ではありません。「神の計画」「与えられた試練」という言葉で、他人の病気や苦しみを簡単に説明してはなりません。言葉によって意味を与えたつもりでも、当事者の苦痛を覆ってしまうことがあります。
言葉の限界を知るとは、語ることを諦めることではありません。語れるところまで丁寧に語り、語り尽くせないものを、無理な説明で埋めないことです。
社会状況、本人の性格、周囲との関係、過去からの積み重ねをたどれば、出来事が起きた理由をある程度まで理解できます。しかし、どれほど丁寧に調べても、その人の人生全体がどこへ向かうかまでは見通せません。
宗教者として私は、具体的な因果関係を軽視せず、そのうえで、人間の理解を超えた大きな秩序があると考えます。
それは、起きた出来事を何でも神の意思として正当化することではありません。病気や失敗に、外側から安易な意味を与えることでもありません。自分が見ている範囲だけで、出来事の最終的な価値を決めないという慎みです。
現在は失敗にしか見えないことが、十年後にも同じ意味を持つとは限りません。反対に、現在の成功が、その人を本当に望ましい方向へ運ぶとも限りません。私たちにできるのは、見える原因を見つめ、必要な責任を引き受けながら、まだ見えていない意味の可能性を閉ざさないことです。
高次の理解は、日常を難しくするためのものではありません。目の前の人に助けが必要なら、まず手を差し伸べればよいのです。その場で形而上学を語る必要はありません。
しかし、その行為の背景に、人間をどのような存在と見るか、苦しみをどう受け止めるか、自分の正義にはどのような限界があるかという理解があれば、同じ行為にも奥行きが生まれます。
感情が揺れたときには、それを相手の悪さの証明とせず、自分の理解を見直す合図にする。すぐに答えを出さず、第二層の原因、第三層の前提、第四層の全体へと視線を移す。そして、周囲の人を悲しませることで、自分の心もまた傷ついていないかを問う。
理解の四つの層を行き来するうちに、私たちは善悪を失うのではなく、善悪をより慎重に扱えるようになります。失敗を成功と呼び替えるのではなく、失敗だけでは終わらない流れを見つけられるようになります。
高次の理解とは、遠い世界へ上っていくことではありません。日常の単純な行動が浅薄なものにならないよう、その背景を深くすることです。人生を実りあるものにするのは、いつも正しい答えを得ることではなく、自分の理解の仕方を問い直しながら、次に起こることへ心を開いておくことではないでしょうか。
修生会
住所 兵庫県姫路市白浜町甲2379 電話番号 079-245-0780 アクセス 白浜の宮駅より徒歩10分
26/08/14
26/08/07
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私たちは日常の中で、出来事をすぐに評価しています。仕事がうまくいけば成功、事業が行き詰まれば失敗、病気になれば不幸、人間関係がこじれれば相手か自分のどちらかが悪い。そのように判断することで、目の前の状況を分かりやすく整理しています。
もちろん、日常生活を送るためには、ある程度の即断が必要です。横断歩道で危険を感じたとき、物事を哲学的に考えている余裕はありません。しかし、感情が大きく揺れたときや、誰かを強く非難したくなったときには、即座に下した判断が、現実の一部分しか捉えていないことがあります。
目の前の出来事を、もう少し長い時間の流れや、周囲との関係の中に置き直してみる。そのための見方として、私は「理解の四つの層」という考え方を提示してみたいと思います。
「理解の四つの層」とは何か
「理解の四つの層」は、心理学や哲学で統一的に定められた正式な分類ではありません。ただし、対象を捉え、構造を知り、前提を問い、複数の理解を統合するという流れは、哲学、教育学、心理学などに繰り返し現れます。
ここでいう層は、人間を格付けするための段階ではありません。一人の人の中に、四つの理解が共存しています。日常の多くは第一層で十分に対応できますが、問題が繰り返されると第二層が必要になります。自分の見方そのものが行き詰まれば第三層へ進み、異なる正しさが衝突するときには第四層の理解が求められます。
大切なのは、いつも高い層にとどまることではありません。必要に応じて上の層へ移り、そこで得た理解を携えて、再び日常の行動へ戻ってくることです。
第一層――目の前の出来事を捉える
第一層では、起きている出来事をそのまま捉えます。「事業が失敗した」「病気になった」「相手が約束を破った」「私は腹を立てている」という理解です。
この層では、状況を速やかに認識し、必要な行動を取ることが重視されます。損失を止める、治療を受ける、相手に事情を尋ねる、危険から離れる。現実的な生活に欠かせない理解です。
しかし、この層だけで判断すると、見えている結果がそのまま出来事の全体になりやすいものです。事業の失敗は悪いこと、病気は不幸、約束を破った人は悪い人と、短い言葉で現実を閉じてしまいます。
第二層――原因と関係の中で見る
第二層では、「なぜ、その出来事が起きたのか」を考えます。
事業の失敗には、本人の判断だけでなく、景気、社会状況、資金、時期、取引先との関係、組織の体質などが重なっています。人間関係のトラブルにも、双方の性格、過去の経験、言葉の受け取り方、立場の違い、疲労などが関わっています。
この層へ進むと、一人だけを原因とする説明が不十分であることに気づきます。もちろん、責任がなくなるわけではありません。しかし責任を問うことと、原因の全体を理解することは別です。
誰かの誤りを認めながら、その誤りが生じた流れも理解する。ここに、感情的な断罪から離れるための最初の余地が生まれます。
第三層――自分の判断の前提を問う
第三層では、出来事ではなく、それを見ている自分の理解の仕方が問われます。
「私はなぜ、これを失敗と呼んだのか」「なぜ相手だけが悪いと思ったのか」「世間の常識を、そのまま正義と考えていないか」「自分にとって面倒なことを、合理的ではないという言葉で退けていないか」と、自分の前提を振り返ります。
私たちは事実を見てから感情を抱くと思いがちです。しかし実際には、事実についての理解や評価が先にあり、それによって感情が大きく動くことがあります。同じ出来事でも、「終わり」と理解すれば絶望になり、「転換点」と理解すれば、苦しみの中にも次への可能性が見えてきます。
第三層では、自分の理解が現実そのものではないと知ります。これは、自分の感情を否定することではありません。むしろ感情を、自分が現実をどのように見ているか知らせるバロメーターとして受け取ることです。
第四層――複数の理解を包み直す
第四層では、一つの出来事を複数の枠組みから捉え、それぞれの有効性と限界を見ます。
病気は、医学的には身体の異常であり、適切な治療を必要とします。同時に、本人にとっては生活の中断であり、家族にとっては不安であり、人生全体から見れば、それまでの生き方を見直さざるを得ない出来事にもなります。
どれか一つだけが正しく、ほかが間違っているのではありません。医学的説明で病気の意味をすべて語ることはできませんが、宗教的な意味づけで医学を置き換えることもできません。それぞれの理解が、異なる問いに答えています。
第四層の理解とは、すべてを一つの答えにまとめることではなく、異なる説明を区別したまま関係づけることです。そして、その全体を見ている自分もまた、限られた立場にいると知ることです。
失敗や病気は、ただ悪い出来事なのか
事業の失敗、病気、人間関係のトラブルは、一般的にはネガティブな出来事として受け取られます。実際に、金銭的な損失、身体の苦痛、信頼の崩壊を伴うことがあります。それを簡単に「よい経験だった」と美化することはできません。
しかし、長い流れの中で見ると、その出来事は突然、理由もなく現れたものではないことがあります。社会状況、本人の性格、周囲との関係、過去の選択や見落としが重なり、ある時点で表面に現れます。その意味では、そこまでの流れの中で、そうならざるを得なかった面もあります。
現実を受け入れるとは、「仕方がない」と諦めることではありません。自分の期待していた世界ではなく、実際にそこにある世界から、もう一度始めることです。
失敗を失敗と認めたとき、手放すべきものが見えてきます。病気を受け入れたとき、治療や生活の組み直しへ進めます。人間関係の破綻を直視したとき、修復するのか、距離を置くのかを選べます。受け入れることによって、次の状況へ移る道が初めて開かれる場合があります。
「合理的」という言葉に隠れる面倒くささ
私たちは、自分の判断を「合理的だ」と説明することがあります。しかし、ときには合理性という言葉の下に、面倒なことを避けたい気持ちが隠れています。
丁寧に話し合うのは面倒だから、相手とは考え方が違うと決める。小さな異変を調べるのは面倒だから、まだ大丈夫だと考える。組織の問題に向き合うのは面倒だから、昔からこうしてきたと説明する。その時点では、手間を省いた合理的な判断に見えるかもしれません。
けれども、面倒だと感じる事柄の中に、次の段階へ進む入口があることがあります。避け続けているものは、現在の理解では処理できない問題だからこそ、面倒に感じられるのかもしれません。
高次から見るとは、何でも複雑に考えることではありません。「合理的」という説明が、本当に全体を考えた判断なのか、それとも自分を守るための短い説明なのかを見分けることです。
感情の揺らぎを、時間を稼ぐ合図にする
怒り、不安、焦り、強い嫌悪が生じたとき、その感情を直ちに正しい判断の証拠と考える必要はありません。同時に、感情を抑え込む必要もありません。
感情が大きく揺れたときには、「いま、自分の理解の仕方が強く反応している」と考えてみます。怒りの源が相手の行為だけではなく、自分の期待、価値観、過去の経験にあると気づくまで、少し時間を稼ぎます。
その場で結論を出さない。言葉を返す前に一晩置く。自分が当然だと思っている前提を書き出す。相手にはどのような流れが見えているかを想像する。こうした時間は、感情を消すためではなく、感情が示している理解の狭さを見つけるためにあります。
時間がたっても相手の行為が誤りだと判断することはあります。しかし、そのときの判断は、最初の衝動的な非難とは違います。相手を傷つけたいのではなく、何を改めなければならないかが、より明瞭になります。
正義を振りかざしたとき、正義の反対側に立つ
世間の常識や多数の意見は、判断の手がかりになります。しかし、それをそのまま正義とすると、現実の一部分しか知らないまま、人を裁くことがあります。
不正を批判することは必要です。被害を受けた人を守ることも必要です。ただし、正しい側に立っているという確信は、言葉を必要以上に強くし、相手を一人の人間として見なくさせることがあります。
正義を語りながら、周囲の人を悲しませたり、苦しめたりする。その苦しみを感じ取れなくなったとき、私たちは正義の名の下で、正義の反対側に立っているのかもしれません。
ここで必要なのは、善悪を曖昧にすることではありません。自分の正しさが、誰にどのような痛みを与えているかを感じ取れるよう、感性を保ち続けることです。正義に感性が伴わなければ、正しさは容易に暴力へ変わります。
アウフヘーベン――対立を捨てずに高く見る
ドイツ哲学の「アウフヘーベン」という言葉には、否定する、保存する、持ち上げるという褹数の意味があります。対立する二つの考えの一方を捨てるのではなく、双方に含まれる真実を残しながら、対立が生じた理由まで見える水準へ進むことです。
第四層の理解は、このアウフヘーベンに近い働きをします。
失敗は損失である。しかし、次へ進む契機にもなり得る。病気は治療すべきものである。しかし、生き方を問い直す出来事にもなる。相手の行為には誤りがある。しかし、その人を誤りだけで説明することはできない。
これは都合のよい肯定でも、両者の中間を取る妥協でもありません。否定すべきものは否定しながら、そこから失ってはならないものを見いだし、より広い理解へ移すことです。
形而上学――判断を支える根本を問う
形而上学というと、現実から離れた難しい学問に聞こえるかもしれません。しかし本来は、「存在するとは何か」「善いとは何か」「人間とは何か」「意味は世界にあるのか、人間が作るのか」と、個々の判断を支えている根本を問う思索です。
事業の成功を善いと考えるとき、私たちは人生の価値を何に置いているのでしょうか。健康を失った人生には価値が少ないのでしょうか。人間関係が続くことだけが善であり、別れることは失敗なのでしょうか。
こうした問いには、誰にでも当てはまる簡単な答えはありません。それでも問うことによって、世間の常識を借りていた自分の判断が、少しずつ自分のものになります。
形而上学は、日常に役立たない問いではありません。日常で「何が役に立つのか」を決めている前提そのものを見直す働きです。
言語の限界を知り、それでも言葉を尽くす
四つの層は、言語を使って考えられます。しかし、言語は現実そのものではありません。
「悲しい」と言っても、その人の悲しみの質感をすべて伝えることはできません。「失敗」と名づけた瞬間に、そこに含まれていた努力、迷い、変化の可能性が見えなくなることもあります。
第三層では、言葉が現実の見え方を作っていることに気づきます。第四層では、医学、心理学、倫理、宗教など、それぞれの言語が何を照らし、何を照らせないかを考えます。
宗教的な言葉も例外ではありません。「神の計画」「与えられた試練」という言葉で、他人の病気や苦しみを簡単に説明してはなりません。言葉によって意味を与えたつもりでも、当事者の苦痛を覆ってしまうことがあります。
言葉の限界を知るとは、語ることを諦めることではありません。語れるところまで丁寧に語り、語り尽くせないものを、無理な説明で埋めないことです。
人間には見通せない大きな秩序
社会状況、本人の性格、周囲との関係、過去からの積み重ねをたどれば、出来事が起きた理由をある程度まで理解できます。しかし、どれほど丁寧に調べても、その人の人生全体がどこへ向かうかまでは見通せません。
宗教者として私は、具体的な因果関係を軽視せず、そのうえで、人間の理解を超えた大きな秩序があると考えます。
それは、起きた出来事を何でも神の意思として正当化することではありません。病気や失敗に、外側から安易な意味を与えることでもありません。自分が見ている範囲だけで、出来事の最終的な価値を決めないという慎みです。
現在は失敗にしか見えないことが、十年後にも同じ意味を持つとは限りません。反対に、現在の成功が、その人を本当に望ましい方向へ運ぶとも限りません。私たちにできるのは、見える原因を見つめ、必要な責任を引き受けながら、まだ見えていない意味の可能性を閉ざさないことです。
高次の理解を、日常へ戻す
高次の理解は、日常を難しくするためのものではありません。目の前の人に助けが必要なら、まず手を差し伸べればよいのです。その場で形而上学を語る必要はありません。
しかし、その行為の背景に、人間をどのような存在と見るか、苦しみをどう受け止めるか、自分の正義にはどのような限界があるかという理解があれば、同じ行為にも奥行きが生まれます。
感情が揺れたときには、それを相手の悪さの証明とせず、自分の理解を見直す合図にする。すぐに答えを出さず、第二層の原因、第三層の前提、第四層の全体へと視線を移す。そして、周囲の人を悲しませることで、自分の心もまた傷ついていないかを問う。
理解の四つの層を行き来するうちに、私たちは善悪を失うのではなく、善悪をより慎重に扱えるようになります。失敗を成功と呼び替えるのではなく、失敗だけでは終わらない流れを見つけられるようになります。
高次の理解とは、遠い世界へ上っていくことではありません。日常の単純な行動が浅薄なものにならないよう、その背景を深くすることです。人生を実りあるものにするのは、いつも正しい答えを得ることではなく、自分の理解の仕方を問い直しながら、次に起こることへ心を開いておくことではないでしょうか。
修生会
住所 兵庫県姫路市白浜町甲2379
電話番号 079-245-0780
アクセス 白浜の宮駅より徒歩10分